昭和42年7月25日 朝の御理解


 昨日は、私の方の一番下の栄四郎達の学校で海水浴を行っとります。福岡のナガタの先の方の、あんまり聞かない田舎の方の海水浴場らしいです。
 昨日、夕方親子で帰ってまいりましてから、まあ、楽しいことだったと思うですけれども、その楽しいことであった中に、何が一番楽しかったかちゅうと、福岡のおじさんがですね、もう真っ黒になって、こういう大きな、こんな大きいちゅう言うんですけれど、そのタコを捕まえて下さったそうですね。一緒にいったおじさんがヨシキ辺りの方らしいです。
 それが大変そのまあ、印象的だったらしいわけなんですね。もうその今度のまあ、海水浴に行った一番印象に残ったのは、あん時の海水浴にどこかんおじさんがこう、タコを取らっしゃっただけらしいようですね。
 けど、私はその一日のうちにですね、そのような例えば、そんなら日記でも書くならば、もうそこだけというところをですね、しかもそれが信心でそのあることを本当におかげ受けてと言うようなその実感がですね、頂けれるおかげを受けなければいけないと思うですね。
 そこで私はもう一回、昨日の朝の御理解を頂いてみたい。恐らく昨日の神に用いられるというところのおかげは皆さんあんまり頂けていなかったのではないでしょうか。
 私、今朝もこうやって開かせて頂いたらやっぱり昨日のそこのところがでてくるです、ね。「氏子が真から用いるは神も比礼じゃが、寄進勧化をしては、神は喜ばぬ」と仰るそのところを昨日の朝もここのところを頂いた。
 今朝もこうやっぱり頂くところをみますとですね、これは神に用いられるその、というところが希薄である。薄い。私は何が何というてもです、一日のうちに、本当に神様が特別のお計らい下さったんだ。特別、こう御用に使うて頂いておることを実感すると。例えば、昨日、善導寺の久保山さんが、お届けに出て見えてから、あのその時の、感激を話しておられるんです。
 もう九時頃でしたでしょうか、私が大変この目が痛そうにしておりましたもんですから、先生しばらくお下がりになってお休みになられたらどうですか。しきりにそれをお勧めして下さるんですよ。私は休みたいほどにもうとにかく痛むんですけれども、もうしばらく辛抱させて頂きましょうと言うて、私はまあ辛抱させて頂く気持ちでおったです。
 ところがです、その久保山さん、バスの停留所まで行かれたところが、丁度、吉井行きが会いましてから、丁度それから降りてくるのが先生何と茂じゃございませんか。ご長男ですね。今頃茂が御引き寄せ頂くということはないのに、ハァ親先生の髭をあたりに来よる。来たなと、こう思った時にですね。
 先生がいつも仰るその辛抱というのはね、辛抱が出来ん、そこんところを押していくのが辛抱じゃ。その先には、神様がちゃんともう以上の辛抱はさせんといったようなですね働きを頂けるもんだということを、いつも頂いておるんですけども、私どもどうも辛抱が足りません。
 恐らく茂が、散髪の御用を頂きますと、先生が下がられることができられる。長くなっている髭をあたってもらうことがでける。本当に神様の働きちゃ、本当にありがたいことだと、実感させて頂いたとこういうのである。
 そして昨日は、大体がやっぱり一つの持病のような病気をもっておられる。いつもその鼻血をたくさん出されるんですね。昨日の朝もやっぱり鼻血をたくさん出されて、もう本当に気分が悪くて寝たり寝たりとこうあのしばらく休んだらと思うようなことであった。 けれどもその昨日のことを思い出したんですね。先生があそこで一押し辛抱させてもらうというところをここが大事と思いまして、今日は実はもう寝らして頂こうと思うたところを、こちらの方へ足を向けてお参りさせて頂きましたというお届けがあっとりました。
 もうこれなんかは、私は事実のポイントになるところですね。信心の焦点になるところ、神様の間違いなさを実感させてもらう。又それがそのまま自分の信心の上にもそれが相当現われておる。
 昨日でした。丁度、文雄先生がここに何かお届けにきておりましてね、たまたま久保山先生の話がでましたから、本当にどんなふうにしておるだろうか。あの人は病院に手紙を出さんもじゃからわからん。病院に入っておることだけど、何という病院だろうか。手紙の一つでも出してやりたいんだけれども、まあ色々あの人にかけておる、ね、私の願いというものを話しよりました。
 そしてここを立って行きましたら、こうやって手紙やハガキを一緒に持ってくるんですね。久保山先生が暑中見舞を二枚出しておる。私とご信者さん一同に、それがだだ、暑中御見舞い申し上げます。絵が書いちゃある。本当に親の思いと子供の思いがこげん違うもんだから、何とかこう、もちっと書きようなありそうなものね。
 けどまあまあそのハガキにですね、一枚一枚絵具で暇にまかせて書いたんでしょう。絵を書いてあるまあ、せめて私の心がそれで慰められるといったようなことでございましたけれども、ハァーこの何と言うかね、私が切実に大体何とちゅう病院におるじゃろうかと、こう言いよるところへ、それに答えて下さるように、ついにハガキが来ておるですね。これなんかやはり一つの私の信心のまあ、 日記でも書くならそういうことでも書きたいことなんですね。
 栄四郎が海水浴に行って、泳いだことも楽しかったに違いはないけれども、福岡のおじさんが、こんな大きなタコをすみだらけになって、そのまあタコと格闘してから、そのそれを捕まえてある。まあ、自分達も捕りたかったんでしょうね。それが、もうとにかく一番口の、そのお土産話なんですね。恐らくこれは何年経っても、この話は、ここんとこだけは忘れられまいと思うんですよね。
 私どもが日々です、いわゆる朝の御理解をもういっぺん復習させて頂いてね、お役に立ちたい、お役に立ちたいという、その念願がですね、神様なるほど、お役に使うて下さる、ね。神に用いてもらう。神に用いてもらう。神に用いてもらうというところにです、神も比礼じゃがと仰る。神様も喜んで下さり、私どもも喜べる。
 神様の勢いというものが、そこにいよいよ御現し申し上げることができる。どうぞ私はそういうようなね、用いられ方と申しましょうか、しょうことなしに使われるのでは、あっては印象には残るはずがありませんし、なるほど神様がですね、もうとっておきに、又は、切ってついだように、はっきりとです、神様の御守護の中にあるんだなと、神様の用いて下さるそのことにおかげがあるんだな。というようなことをです、本気で、お互いが一つ頂かせて頂こうとする精進こそがですね、信心をいよいよ有難いものに、尊いものにしていくことができるんだと思います。
 皆さん、今日ももういっぺん、昨日の朝の御理解を思い出されて、本当に神様に用いて頂きたい。ために、私どもが用いて頂きたいね、よい神様にお喜び頂ける御用に、お使い回し頂きたい。お使い回し頂きたい。
 昨日、浅野?さん、朝の御祈念にお参りしておられました。が、昨日の月次祭の晩も、ことのほか、小虫がいっぱいでございました。閉めてあったけれど、もう畳がべたべたするくらいに悪りかった。始めの間は、まあちょっとのつもりで、触り出したところがもう切りがない。もうお広前だけではない。脇殿からこう、末永さんと一緒にお掃除を、とうとう十二時まで。私が下がるまで御用頂いておられました。これなんか本当に、あの神に用い、いられなさったんだと思うんですね。
 どうでも皆さん、自分が思いもかけないことに、神様がですね用いて下さる。それが私どもが日頃やはり用いて頂きたいという願い、お役に立ちたい、立ちたいという願いが、やっぱり持っておかなければ、お役に使うて下さりませんですね。どうぞ。